古墳時代後期のはびきの

更新日:2024年01月19日

 誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(応神陵古墳)のような巨大な前方後円墳が築かれなくなり、古墳の大きさが縮小されていく時期にあたります。古市古墳群では白髪山古墳(清寧陵古墳)や高屋築山古墳(安閑陵古墳)ように墳丘長が100メートル規模の古墳が南西部にまとまって築かれるようになり、埋葬施設には、横穴式石室が採用され、前方部が大きく開くようになります。 一方、飛鳥や駒ヶ谷地区の山麓(さんろく)斜面で多数みられる円墳を中心とした群集墳もこの頃から築かれはじめ、無数に存在することから千塚(せんづか)と呼ばれています。これらの群集墳は、直径10メートル前後の円墳で横穴式石室を備えた古墳が中心です。石室の中には、ミニチュア炊飯具などの珍しい遺物を副葬するものが存在し、そのことから 渡来人(とらいじん)たちの墓ではないかと考えられています。このように河内飛鳥地域は、渡来文化の色彩の強い地域と言えるでしょう。

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