国指定/登録文化財

更新日:2024年01月19日

国宝
分類 名称・員数・時代・所有者・指定年月日 解説
工芸 塵地螺鈿金銅装神輿(ちりじらでんこんどうそうしんよ) 1基 (鎌倉時代 ・誉田八幡宮) 昭和31年6月28日 応神陵へお渡り儀式で使用されていた工芸技術の粋を集めた壮麗な神輿で、建久7年(1196)、源頼朝が、社殿を造営したときに寄進している。
考古資料 金銅透彫鞍金具(こんどうすかしぼりくらかなぐ) 2具分 (古墳時代 ・誉田八幡宮) 昭和9年1月30日 嘉永元年(1848)に応神陵古墳陪塚の丸山古墳から出土し、誉田八幡宮に納められた。前輪後輪が2具分あり、銅板に透かし彫りした唐草文風の文様は、中央を向く竜文を左右対象に連続して配し、毛彫りが施される。大陸との交流を物語る第一級の飾り鞍である。
重要文化財
分類 名称・員数・時代・所有者・指定年月日 解説
建造物 吉村家住宅 3棟 (江戸時代 ・個人蔵) 主屋:昭和12年8月25日 表門・土蔵:昭和40年5月29日 南河内地方にあって庄屋を勤めていた豪農の住宅で、広大な屋敷地に大和棟の主屋(17世紀)、表門(寛政10年(1798)改築)、土蔵(18世紀前半)が建つ。主屋は切妻の高塀造、茅、こけら、本瓦葺などで、内部は居室と土間からなる居室部と数寄屋風の書院造りの客室部からなる。長屋門は総茅葺の入母屋造。土蔵は切妻造の本瓦葺で、高札場が付属している。
絵画 紙本著色神功皇后縁起(しほんちょしょくじんぐうこうごうえんぎ) 2巻 (室町時代 ・誉田八幡宮) 明治43年4月20日 応神天皇の生母である神功皇后の事蹟を上下巻2巻の絵巻にしたもの。赤、青、緑を多用した濃彩と細かい描写が特徴で、伝統的な大和絵様式による画風で室町時代を代表する絵巻の一つ。永享5年(1433)、室町幕府6代将軍足利義教が奉納している。
絵画 絹本著色誉田宗廟縁起(けんぽんちょしょくこんだそうびょうえんぎ) 3巻 (室町時代 ・誉田八幡宮) 明治43年4月20日 応神天皇の山陵の造営、社殿の建立、八幡大菩薩の勧請、誉田八幡宮の霊験などを題材に、縁起を上・中・下3巻の絵巻にしたもの。永享5年(1433)、室町幕府6代将軍足利義教が奉納している。
彫刻 地蔵菩薩立像(じぞうぼさつりゅうぞう) (地蔵堂安置) 1躯 (平安時代 ・野中寺) 大正4年8月10日 檜の一木造りで、蓮華座上に直立する。右手に錫杖をとり、左の掌に宝珠を載せる。穏やかな面相と均整のとれた体躯などに特徴がみられ、平安時代後期の作と推定される。地蔵堂本尊として祀られている。
彫刻 金銅弥勒菩薩半跏像(こんどうみろくぼさつはんかぞう) 1躯 (飛鳥時代 ・野中寺) 大正10年8月8日 右足を左膝上に置いて坐り、右手の指先を頬に当てて瞑想する半跏思惟の菩薩像。台座には「丙寅年(666)に栢寺の知識118人が天皇の病気の平癒を祈願して弥勒像を造像した」という意味の銘文62文字があり、製作年代、弥勒であることが明らかな像として、美術史上でも注目される。
彫刻 十一面観音立像(じゅういちめんかんのんりゅうぞう) (観音堂安置) 1軀 (平安時代 ・長円寺) 昭和13年8月26日 平安初期の特徴が顕著に見られる、頂上仏面の形式の立像。平安時代初期の作と推定され、西琳寺から伝わったとする説もある。
彫刻 木造舞楽面(もくぞうぶがくめん) 11面 (鎌倉から室町時代 ・誉田八幡宮) 昭和33年2月8日 陵王、散手、貴徳など、舞楽に用いられる仮面。13世紀前半から後半の年号を記すものもある。製作技術が優れ、表現も巧みで、製作年代、作者が判明する作品として、舞楽の展開を知る上で貴重。興国4年(1343)の年号がある退走徳3面と明応7年(1498)の年号がある退走徳1面を附とする。
彫刻 木造僧形八幡神及諸神坐像(もくぞうそうぎょうはちまんしんおよびしょしんざぞう) 頼円、実円作 五軀  附 墨画日課千躰地蔵菩薩像(神功皇后像内納入)一巻(南北朝時代 ・壺井八幡宮) 平成31年3月18日 像底の銘文や納入品の記載によって正平八(1353)年から翌年にかけて、仏師とみられる頼円・実円親子によって造られた。彩色も良く残り、制作年や制作者が知られていることなど、南北朝時代における神像の基準作品として貴重な作品である。
工芸品 剣 (銘 真守) 1口 (鎌倉時代 ・誉田八幡宮) 明治45年2月8日 両鎬造りで先がわずかに張る。茎には「真守」の銘があるが、大原真守あるいは畠田真守の作と伝えられるが特定できない。拵は江戸初期のもので、大橋龍慶奉納の金象嵌銘がある。
工芸品 松皮菱螺鈿鏡鞍(まつかわびしらでんかがみくら) 1背 附 杏葉轡(ぎょうようくつわ) 1口 (鎌倉時代 ・誉田八幡宮) 明治29年3月20日 肉厚の前後輪に銅の覆輪をかけ、居木と前後輪の表面は黒漆地に松皮菱文様を螺鈿で表す。のちに前後輪の表面を金属の薄板で覆い、鏡鞍に仕立て儀式に供した。源頼朝の寄進と伝える。
工芸品 薙刀(なぎなた) (無名 大和物 鉄蛭巻薙刀拵) 1口 (鎌倉時代 ・誉田八幡宮) 明治37年2月2日 黒漆塗に鉄を蛭巻にした堅牢な造りで、身幅は広く先があまり張らない上品な姿。鎌倉時代の大和物の特色を備え、当麻系の刀工の作と見られる。拵えは樫の柄に鉄板を巻きつけ、漆をかけたもの。製作当初の姿を残す貴重な遺品の一つで、源頼朝の寄進と伝えられている。
工芸品 黒韋威胴丸(くろかわおどしどうまる) 壷袖付(つぼそでつき) 1領 (南北朝時代 ・壷井八幡宮) 昭和31年6月28日 厚みのある小札を黒く染めたなめし皮で威す。正面の胸板には牡丹獅子文の絵革で包み、要所に桐文を高彫りに据えた八双金具で補強する。南北朝末期作の胴丸の代表作。
工芸品 太刀 (銘 則国 茎に大橋入道式部卿法院竜慶献上誉田八幡宮の金象嵌銘がある) 1口 (鎌倉時代 ・誉田八幡宮) 昭和9年1月30日 鎬造りで、身幅が先から元に向かって自然に幅を増す鎌倉時代の太刀姿の典型。茎に京都粟田口派の刀工「則国」の銘。大橋龍慶献上の金象嵌銘がある。
書籍典籍 伏見天皇宸翰後撰和歌集第廿(ふしみてんのうしんかんごせんわかしゅうだいにじゅう) 1巻 (鎌倉時代 ・誉田八幡宮) 昭和17年6月26日 永仁2年(1294)に伏見天皇が29歳で書写したもので、底本は藤原定家による。料紙は紫の打曇の鳥の子紙で、折本であったものを巻子装としている。能書で知られる伏見天皇のなかの代表作品。
考古資料 袈裟襷文銅鐸(けさだすきもんどうたく) (大阪府羽曳野市西浦出土) 1口 (弥生時代 ・文化庁【羽曳野市】) 平成3年6月21日 昭和53年9月27日、西浦小学校の校舎改築現場で発見され、幅65センチメートル、深さ35センチメートルの穴に45度の角度で埋められていたことがわかった。鈕の形式による分類では突線鈕式で、鈕の外縁と鰭の外縁に双頭渦文の飾耳がつく。外面の文様は六区袈裟襷文で区画内の文様はない。鈕の中央の綾杉文帯に太い突線を入れ、鋸歯文帯の斜線は全て方向をそろえる。
史跡
名称・員数・時代・所有者・指定年月日 解説
通法寺跡(つうほうじあと)(平安時代 ・文部科学省【羽曳野市】) 昭和32年7月1日 長久4年(1043)に源頼義が建立した。「河内源氏の氏寺」として鎌倉幕府の将軍家などの崇敬を集めるが天正年間に荒廃していたが、江戸時代に入って将軍綱吉の時に、僧隆光によって再興されるが、明治時代の廃仏毀釈により廃寺となった。
野中寺旧伽藍跡(やちゅうじきゅうがらんあと)(飛鳥時代 ・野中寺) 昭和19年11月7日 聖徳太子の創建と伝えられ、「中の太子」とも呼ばれている。講堂に対して右側に金堂、左側に塔を配置する、法隆寺式の伽藍配置をもつ。現在、塔跡は整備され巨大な塔心礎が残る。
古市古墳群応神天皇陵古墳外濠外堤跡 (ふるいちこふんぐんおうじんてんのうりょうこふんがいごうがいていあと)(古墳時代・羽曳野市 他) 昭和53年10月30日 (平成13年1月29日 名称変更) 5世紀前半に築造された、古市古墳群最大の全長425メートル、前方部幅300メートル、高さ36メートル、後円部径250メートル、高さ35メートルの規模をもつ前方後円墳で、墳丘と内濠、内堤は宮内庁が管理している。古墳の西側では外濠と外堤が良好に残存し、史跡に指定されている。
誉田白鳥埴輪製作遺跡(こんだはくちょうはにわせいさくいせき)(古墳時代・羽曳野市 他) 昭和48年6月2日 埴輪を焼いた登り窯11基と工房跡と推定される掘立柱建物が発見されている。埴輪は円筒埴輪が大半を占めるが、人物・きぬがさ・盾・武具等の形象埴輪片も出土している。
観音塚古墳 (かんのんづかこふん)(飛鳥時代・羽曳野市) 昭和56年4月22日 鉢伏山(はちぶせやま)から派生する標高98メートルの尾根上に位置する。墳丘は12メートルほどの大きさで、円墳または方墳とされている。内部は石英安山岩の切石で石槨、前室、羨道からなる埋葬施設がもうけられている。飛鳥時代の切石積石室を代表するものの一つである。
古市古墳群峯ヶ塚古墳(ふるいちこふんぐんみねがづかこふん)(古墳時代・羽曳野市) 昭和49年4月12日 (平成13年1月29日 名称変更) 5世紀末頃に築造された全長96メートル、前方部幅74メートル、後円部径56メートルの前方後円墳で、くびれ部の北には造出しがあり、内濠と外堤、外濠が設けられている。後円部中央の石室から大刀や装飾品など豪華な副葬品が発見された。
古市古墳群墓山古墳(ふるいちこふんぐんはかやまこふん)(古墳時代・羽曳野市) 昭和50年2月22日 (平成13年1月29日 名称変更) 5世紀前半に築造された全長225メートル、前方部幅153メートル、高さ19メートル、後円部径135メートル、高さ21メートルの前方後円墳で、くびれ部の両側に造出しがあり、内濠と外堤、外濠が設けられている。埋葬施設は不明だが、後円部に竪穴式石室を推測させる2ヵ所のくぼみがあり、長持形石棺があったことが伝えられている。
重要美術品
名称・員数・時代・所有者・指定年月日 解説
明衡往来(めいこうおうらい)・書状(しょじょう)・後光厳天皇筆(ごこうごんてんのうひつ)1巻 (南北朝時代・誉田八幡宮) 昭和17年5月30日 能書で知られた後光厳天皇による明衡往来と書状を1巻にしたもの。明衡往来とは書状の文例集で、平安時代の公家の書状を集めている。
妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)1巻 (平安時代・誉田八幡宮) 昭和18年10月1日 1行に34字の経文を金泥で書写する細字法華経。菅原道真筆と伝えられており、巻頭の欠落は、良尚法親王が補写している。
書状 霊元天皇筆(しょじょう れいげんてんのうひつ)1幅 (江戸時代・誉田八幡宮) 昭和18年10月1日 霊元天皇が後醍醐天皇宛に書いた自筆書状。牡丹を送り届けることや和歌についての内容で、霊元天皇の和歌との関わりを知る史料である。
太刀 銘 安綱(やすつな)1口 (平安時代・壷井八幡宮) 昭和10年10月14日 長さ76.8センチメートル。「天光丸」の号があり、「河内名所図会」には多田満仲から伝えられ、源義家が佩用(はいよう)したと記されている。安綱は平安時代の伯耆(鳥取県)の刀工の一人で数々の名刀を残す。
登録文化財
名称・員数・時代・所有者・指定年月日 解説
   
松村家住宅(まつむらけじゅうたく)7棟 個人蔵 (江戸時代:主屋・長屋門・土蔵一・土蔵二・土蔵三 明治時代:外塀・内塀) 平成18年8月3日 敷地の南中央に長屋門を開き、屋敷の中央に主屋を建てる。主屋の後ろに蔵2棟、長屋門の西に蔵1棟を配置する。建物の構成や主屋の間取りなどは、吉村家住宅に類似するところがある。主屋の主要部分は江戸時代末期から明治時代にかけて、3棟の蔵は江戸時代の建築と考えられるもので、河内地域の庄屋の住宅の姿をよく残している。
この記事に関するお問い合わせ先

羽曳野市教育委員会事務局
生涯学習部 文化財・世界遺産室
大阪府羽曳野市誉田4丁目1番1号
電話番号:072-958-1111(代表)
ファックス番号:072-947-3633

メールフォームによるお問い合わせ